故人を送る想いのこもった「小さな小さなお葬式」送る側も送られる側も共に味わう「喜び」
真夜中に起こされた。
なんだろう。
こんなに早く私を起こして、何が始まるのかな?
どんな展開になるのか、軽く瞑想状態で、
現れてくる「言葉」を、
映像化しながら楽しんでいました。
額に意識を集中すると、
ヴァイオリンを楽しんでいる父の姿。
イメージの中に浮かび上がった姿は、
ぼんやりとしていて、輪郭はないけれど、
絶対にお父さん。
あ〜よかった。
もう、自在にヴァイオリンを奏でるまでになったのね。
小学校の頃、よくヴァイオリンを弾いてくれていたっけ。
私がピアノが弾けるようになると、合奏したっけね。
何を一緒に演奏したか忘れちゃったけれど、
あの幸せなひと時は、強く浮かび上がってきます。
それから間もなく父の人生には、次々「不幸な嵐」が吹き荒れて、
「楽しみ」や「喜び」は、かき消されてしまったのです。
父の人生をちょっとさかのぼりましょう。
大学を出て、就職難の中、
ある化学研究所に勤めた父は、
そこの顧問であった芸大の教授と親しくなり、
中野のお家に居候させてもらって、
教授のお子さんの家庭教師をしながら、
職場では、合唱部を作りました。
そして、結婚。子供ができ、マイホームパパを。
奥さんがお仕事で忙しいから、
いつも休みのたんびに、私たちをいろんなところに連れて行ってくれましたっけ。
ところがです。「いい話?」が父に舞い込んできます。
全く畑違いの建築関係の新しい仕事の話。
母の反対を押し切って、男のロマンをとったんだね。
母は、現実がわかっていたんだと思う。
父は新しい会社の専務となって、神奈川県下の営業を一手に引き受け、
毎日200キロ以上、タクシー運転手並みに車を運転する生活になりました。
夜は、接待でお酒を飲む毎日。
がんばりは、会社の成長を右肩上がりに押し上げ、
県下でも有数な会社になりましたが、
体は、次第に蝕まれていきました。
思うように動けなくなっていった父。
ある日、綺麗さっぱりと仕事を辞めてしまいました。
いろんな思いを溜め込んでいた父は、
昼間は寝て、夜中にお酒を飲んで、
狂人となる日々が続きました。
昼間は、母や私が自宅の下にある美容室で、
働いていたから、
我慢していてくれたのだと思いますが、
怖かったです。
家具を投げつける音や、
壁を叩く音が、
深夜になると始まるのです。
その音からは、
一生懸命頑張ったのに、
なんで自分はこんな目にあわなきゃいけないんだという「怒り」や、
「悲しみ」が伝わってきました。
そして、ある晩、自分の命をも、、、、
幸い、命は取り留めましたが、
それからは、抜け殻のようになってしまった父は、
いったい何を思って生きていたのでしょう。
つい3年ちょっと前まで、
父の人生には、「不幸」の嵐が、
吹き荒れていたのかも。
そんな父に、再び「天上の音楽」が舞い降りてきたのは、
お世話になっていた老健施設での、
ある日曜日の朝でした。
人気のない日曜日のデイサービスのフロアから、
ピアノの音が聞こえてきました。
父と母の車椅子を同時に押して、
その美しい音色に導かれて広い廊下を歩いていくと、
明るい光に満たされた片隅で、
小柄な女性が「車椅子」のご主人のために、
ピアノを弾きながら「ふるさと」を歌っていたのです。
私たちの姿に気づくと、「一緒に歌いましょう」と、
いくつか曲を弾いてくださいました。
父がクラシックが大好きだとわかると、
では、お父様に。この曲をプレゼントと言って、
ベートーヴェン ピアノソナタ 第14番 「月光」
を弾いてくださったのです。
美しい音色に、父も母も私も涙しました。
それからしばらくして、
ある日のこと。
ベッドに横たわった父の元を訪れると、
私にこう言ったのです。
「お父さんの財産をあげるよ」
「?????」
(父は、常にウィットとユーモアに満ちていたと、父の悪友から先日話を聞きました)
「何くれるの?」(隠し財産?)
「。。。。。。。」「お父さんの財産はヴァイオリンなんだ」
「それをやるよ!」
なあんだ期待しちゃったけれど、違った。
だけど、その言葉はズシンと胸に響きました。
憎たらしいこと言うじゃん。お父さん。
何十年って見たことのなかったヴァイオリンは、
埃だらけになって、押入れの天袋のずっと奥に、
仮死状態で眠っていました。
完全防備をして、その天袋に飛び込み、
ヴァイオリンを救出。
恐る恐る蓋を開けると、弓に使ってある毛は、粉々になって、
なんとも悲惨な状態でした。
これは、このまま見せられないと思ったので、
「思い出のヴァイオリンを修復」でネット検索して、
修理をお願いしに横浜に飛んで行きました。
生まれ変わったヴァイオリンを父の元に届けて、
さぞ喜んでくれるかと思ったら、
少し触れただけで、「もう弾けない」ですって。
何も言ってくれない父は、
私にヴァイオリンを託すことで、
もう自分の人生の幕を閉じようとしていたのかもしれません。
毎週日曜日の朝、あれからずっと、
音楽を楽しむ「20分」は続いています。(元気な時だけね)
今年の1月(2018年)、インフルエンザの流行で、
施設が閉鎖されてしまった時に、ピアノの友人は、
お家にいてもたってもいられなくなって、
楽器店に飛び込み、ある楽譜を手に入れました。
それが「ダニーボーイ」
お父さんたちと会えるようになったら、
これを歌いましょうと、手書きの楽譜をくださったのです。
それが、まさか、父の「ラストソング」になると思わなかった。
何を思っているのか、何をしたいのか、
それを表現することさえもできない状態で、
生きているって、どんななんでしょう。
わかってあげられない苦しさは、
多くの家族の方が感じられていることだと思うのです。
今になって思うことがあります。
「苦しんでいる」目の前の人の、
「苦しみ」に焦点を当ててしまうと何も見えないんだって。
「音楽」「ソマティクス(ハンズオンによるボディコンディショニング)」は、
「生きている細胞」に直接語りかけてくれるんだね。
その世界は、「苦しみ」がなくて、
「幸せ」に満たされた世界です。
それから、「父の幸せな細胞さんたち」に、
語りけることを続けました。
肺炎と熱で苦しみながらも、
私の歌う「ダニーボーイ」を聞いて涙した父。
10月28日の日曜日の朝でした。
目がキラキラ、少年のような瞳で、大きな声で私の名前を呼んで、
出迎えてくれたね。
一番を歌い終わると、
動かないはずの手首をパタパタ大きく動かして、
全身で喜びを表現してくれた父。
「胸から響く音のない喝采と大拍手」
思えば、これが、最後の曲。
そして、父を送る「葬送曲」となりました。
ご住職の読経が終わり、
私の心に寄り添ってくれている父と一緒に考えた弔辞を読み終えると、
私の体の中を、地面からずっしりとした大木が生えてきて、
どんどん太く太くなるような感覚をおぼえました。
そして、参列した皆さんに、
「ラストソング」を歌った10月28日の日曜日のお話をしました。
その瞬間、みなさんの心に「父の姿」が見えるようでした。
「今日は、この曲で父を送りたいと思います」
「よろしかったらご一緒に歌ってください」
熱い熱い涙が、
参列してくださった皆さんの頬を濡らしました。
そして、歌いきった後の「大拍手」
きっとみんなお父さんと一緒に歌って、
幸せになれたのかも。。。。
結果、仏式のおきまりの葬儀だったはずのお見送りは、
音楽葬になったのでした。
出棺の儀式を待つ間、
「ブラボー」って言われちゃった。
泣いて、笑って、ハグし合いました。
すっごい明るい葬儀に、
たくさんの想いが込められて、
さぞ喜んでいることでしょう。
その日、何十年ぶりかで会った「父の悪友」は、
スピーチの仕方や語り口調が、
父にそっくりで、父を見ているようだったと、
火葬場で語ってくれました。
お父さんと一つになっていたのかもね。
貴重な体験でした。
さあ、今日はこの辺で失礼します。
井沢慶紅でした。
image by Jim Choate
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