恥と罪の意識 「腎臓」の文化と「胃」の文化 

誰もが知る<忠臣蔵>の、誰も知らない<二人の生き残り>それは<生きろ>という、過酷な使命。討ち入りから16年、死ぬことを許されなかった男たちの物語名を変え、武士を捨てた男、瀬尾孫左衛門(せのおまござえもん)。生涯を捧げ守り続けた、その使命とは―あの日、死ぬことをゆるされなかった二人の男ただ使命のために生き抜いた16年の歳月一人で背負ってきた重き使命が、家臣全員の喜びの指名へ
 最後の忠臣蔵 あらすじ・解説などhttp://cinema-j.com/houga/?p=5753
 
 

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切腹  1962・松竹 
  物語彦根藩、井伊家の玄関を津雲半四郎と名乗る浪人が訪れた。「生活に困窮し、これ以上生き恥をさらして生きるよりは、いっそ武士らしく切腹して果てたい。せめて、最後の死に場所に、ここの庭先をお借りしたい。」と言うのである。井伊家の家老は苦りきった。「又,来よったか・・・」当節、食い詰者の浪人が、切腹すると称して大名の玄関先にやってきては、庭先を血で汚されたくない武家屋敷から、幾ばくかの金を得て生活の糧にするという風潮があった。いわば、たかりである。(続く・・・・)http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/harakiri.htm 恥という言葉は、日本でうまれた恥と罪の意識アメリカの文化人類学者、ルースベネディクト著による「菊と刀」Yahoo知恵袋のベストアンサーでは、日本は恥の文化、欧米は罪の文化のちがいについて、こう答えていました。『空き缶をぽい捨てするという行為はいけないことですよね。それはアメリカ人も日本人もわかっていることですが、認識の仕方が違います。アメリカ人はキリスト教の文化もあり、そこに「神が見ているからポイ捨ては罪である」という意識があります。一方日本人は「誰かが見てたらいけないからポイ捨てはいけない」という意識になります。つまり日本人は"恥"というものを根本にアメリカ人は"罪"というものを根本に善悪の判断をする国民だよ、ということを意味し、ベネディクトは「日本は恥の文化、欧米は罪の文化」と表現しました。』日本は、「何々は、こうあるべき」という文化を伝えてきた。外見をつくる文化といってもいいですね。例えば、「武士たるものは、こうあらねばならぬ!」「~道」という秩序だったものを形作ったものは何か・・・もともとは、明文化されていなかったものが、時を経て概念としての「武士とは・・」という形を形成する。組織をつくり、忠誠を誓うために、神ではなく、恥、体面の精神が存在していた。その裏には、「弱い自分」をさらけ出さないという「恐怖心」が存在している。自分は組織の一部として、「体裁を作っていないと恥である」という精神を育んできた。ゆえに、日本人は、「神と自分」という西洋型の「個」の文化ではなく、「集合体と自分」という「体裁をつくる」文化を形成したともいえる。恥や体裁は、恐怖心からうまれる。恐怖心は、腎臓と関連。腎臓のエネルギーが低下すると、虚栄心が増強する。自分を大きく見せなくてはならない。欧米は、神と自分の関係。自分は罪人であるという概念を形成してきた。罪の意識は、「胃」に関連する。日本の文化は、「腎臓」の文化欧米の文化は「胃」の文化と考えるととてもおもしろいですね~ママキッチン

☆ Body knows the future ☆

からだの声に耳をすませばいいの?声って何?この「瞬間」からだのそこかしこが、どんな風につながって、そしてすべての組織や育みを、足は大地に伝えているんだろう。手には何を携えているんだろう。網膜に映る現実を、心にどう伝えているんだろう。内なる「目」で、どこに心地よさがあるんだろうって感じて。ほらほら!「生きる」こと、楽しみに待っている「細胞たち」がある。そうなんだね。からだは未来を知っている。