日本人にとって「仏教」ってなんだろう?「私たち、無宗教?」これから再び学んで心の中の「信心」がつながっていくんだね!
「あなたの宗教は、何ですか?」と聞かれたら、なんと答えますか?「無宗教?」「信じるものが何もないの?」「あなたのオリジンは何?」なんて言われそうですよね。「宗教」って言葉は、幕末に作られた言葉なんですね。それまで、そんな言葉なんかないから、自然な形で、お念仏を唱えていたんじゃないのかなあ。生活と密着しているものですよね。「信心」するってことは、何か「信念」があるということでしょう。日本の教育には、底がヌケちゃったみたいね。お坊さんたちも、お寺の祭事や、墓守だけでなくて、町にどんどん出てきて、もっといろいろ教えてほしいなあ。信心は、体験のなかで、培われていくものでしょう。英語 Religion はラテン語のreligioから派生したもので、religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと、「結びつける」という意味のligareの組み合わせ。「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけることなんですって。(Wikipediaより)阿弥陀仏と十声称えてまどろまん 永き眠りになりもこそすれ「永遠の眠り」を検索していたら、この歌が目に留まりました。法然上人の和歌です。「南無阿弥陀仏」と十遍お称えてしてから、夜休むようにしたいものです。いつ永遠の眠りにつくとも限らないのですから。という訳がついています。その解釈は、以下のように書いていらっしゃいます。どんな時でも、往生を願いお念仏をお称えする事が、阿弥陀様の本願に順ずる、従うことであり、必ず極楽浄土へと往生させていただける“行”~行い、修行なのですよとお示しになられました。人の命は無常でありますから、この眠りが、そのまま永遠眠りになってしまうかもしれないのです。今が最期の時と思って、往生を願い、お念仏して、眠りにつきましょう。(以上転載文です)日々の行いが修行ですと言っているところは、私たちにも、理解できますよね。そういった行い(仕事や生活)のなかで、再び「神とひとが結びつけられる」と考えると、子ども達にも、そのことを、伝えていきたくなりますね。「合掌」という言葉も、調べてみました。Wikipediaによると、右手は仏の象徴で、清らかなものや知恵を表す。左手は衆生、つまり自分自身であり、不浄さを持ってはいるが行動力の象徴である。両手を合わせることにより、仏と一体になることや仏への帰依を示すとされる。 他人に向かって合掌をすることは、その者への深い尊敬の念を表す。(以上Wikipediaより転載)ここでも仏(神)と一体と出て来ますね。そして、「行動」とここでも言っています。自分の場所で、淡々と仕事をしなさいということですね。自分の仕事は、今やっていることが、「天職」ですもんね!これじゃない! あれじゃない!不満をいわずに、目の前のことを一生懸命(感情にコントロールされずに)やることで、次の道が開けていきますよ。
カンボジアの挨拶-合掌-より転載リフレクソロジールームママキッチン
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