信じること 自分はどこからきてどこへいくのか? 脾臓のはなし

 ある意味信じるものを失っているとも言える私たちの宗教観と、代々受け継がれた信仰のもとで育ってきた人々の宗教観はまったくことなります。信仰のなかで育った人々には、信じる、信じないという選択もありませんし、そんな言葉自体もありません。以前知り合ったあるインド人の男性の話ですが、いくらはなしても、神(マスター)に関することでまったくはなしが通じないのです。同じ日本語を話していても、宗教観がまったく違う事がわかりました。彼の育ってきた言語圏の概念の中には、マスターがいて、自分がいるのです。八百万の神の国、日本人からしたら、一人の絶対なる神という感覚は理解できないのでしょう。彼らにとっては、もともとあるものですから、神の存在、という考えもないんですね。すべてが神であり、神のために奉仕をすることが、自らの喜びなのです。彼の血の奥底に流れる川は、途切れる事なく祖先から伝えられている大きな大きな河なのです。日本人であるわたしたちの川は、戦後、いったん埋め立てられてしまったのかもしれません。ですから、せき止められたところから、まず、源にたどる作業をしないといけないのかもしれません。

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーによれば、宗教の出発は「人間がどこから来て、どこへ行くのか」という疑問であったという。約5万年前のネアンデルタール人の遺跡には、すでに死者を葬った痕跡があり、発生当初の宗教は多分に呪術的性格を帯びたものであったことが考古学の成果などからも明らかである。やがて社会が発達し、単なる人間の群れから部族へ、部族から民族へ、民族から国家へと発展してくると、呪術もまた個人単位のものから社会単位のものへと変化した。問題とされることも、個人の単純な願いごとから家族や氏族、民族や国家の問題へと大規模化ないし複雑化し、個人を越えた威力や生命力は部族神、国家神のかたちでまとめあげられていく。理論経済学者村上泰亮は、人間集団の存続をその内外で正統化する根拠で最も有力なものとして「血縁(キンシップ)」を掲げ、これが人類最古の組織原理であったろうとする。そして、定着農耕開始期には比較的平等な血縁的集団である氏族(クラン)がみられたことは事実として確認されており、農業生産の高まりに応じて集団規模が拡大すると、それにともなって自らの祖先たちを位階的に体系化する伝承や神話が各地に生まれたとする。「位階化神話」[2]は祖先神体系に修正ないし拡大をほどこして、実際には血縁のつながりのない人びとを想像上の血縁関係のなかに取り込んでいき、家族 → リニージ(同祖集団) → クラン(氏族) → クラン連合(部族) → 部族連合(民族)へと、血縁的正統化の論理によって拡大される。こうして事実上の血縁関係の後退は神話的な血縁関係によって補完され、首長制から王制への連続的な進化がなされる。村上によれば、都市文明をともなった古代文明のうち、最も非血縁的であるかにみえるメソポタミア文明においても、その宗教の内実は「位階化神話の高度化」であったと評価し、エジプトでも同様にみられる神々の階層化と広大な宇宙論との集大成こそが、R.N.ベラーのいう「古代宗教」である、としている。やがて、「人間とは何か」「宇宙とは何か」が問われるようになり、小国家の分立にともなう抗争や商業の発展がみられた紀元前一千年紀のなかごろには、人間の思考は感覚的なものを突き抜けて諸現象の奥底にある形而上学的な世界にまでおよび、世界宗教(R.N.ベラーのいう「有史宗教」)が誕生した。中国では孔子や老子が登場し、インドではゴータマ・シッダールタがうまれ、イランではザラスシュトラが挑戦的な世界像を描いて、パレスティナではイザヤやエレミヤをはじめとする預言者たちがあらわれた。(以上ウィキペディアより)

私たちが育った日本の文化的な道のりをさかのぼっていくと、人々がなにを考え、何を伝えてきたかが見えてくるでしょう。
 イタリア統一150周年記念で、テレビでもいろいろな企画で番組を放送しています。シチリア島のパレルモだったかどうか忘れましたが、その地方の海を守る女神像(灯台)を描き続けている男性と出会い、取材班はその男性に招待されることになり、その家族との夕食のようすが放映されていました。彼らの祖先は、最後までイタリア統一に反対したのだそうです。「歴史とは、勝利者の軌跡にすぎない」と長男と思われる20代くらいの息子さんが、歌を披露してくれました。彼らは、しっかりと祖先からすべてを受け継ぎ、統一後のいろいろな不都合も、彼らなりに受け止めて、「いまを生きている」様子が伝わってきました。

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私たちの身体の中で、祖先からの情報を記憶している臓器があります。それは、脾臓です。脾臓は、私たちが「どこからきて、どこへいくのか」を指し示す、道先案内人でもあります。刻々と変わっていく身体の状況を把握するために、常に脾臓は、血液成分などを分析しています。個を維持し、守るために!その個体のメモリーが情報として、エネルギーレベルで保管されているのが、脾臓なのです。異物が体内に侵入してくると、排除します。これが、アレルギー反応です。身体の免疫機能は、健康な脾臓であれば、正しく働きます。脾臓は、通常、自分とそうでないものの区別をしますが、脾臓が汚染されてしまうと、選別能力を失ってしまいます。自己免疫疾患です。アレルギーの対処法として、西洋医学では、アレルゲンの特定をしてそれを排除する方法をとりますが、自己免疫疾患となると、お手上げ状態です。しまいには、脾臓をとってしまったりします。脾臓の汚染を防げば、また健康な脾臓の状態を維持する事ができます。脾臓の最大の敵は、別の個体の情報が入れられてしまうことです。人間と同じ動物界の情報が大量に入ってきてしまうことに原因があります。肉を食べるということです。特に豚肉は、顕著です。豚さんは、三日後を予知できるほど、感覚的に人間に近い動物です。左足の脾臓の反射区が時々痛い人がいますが、「昨日、もしかして豚肉たべましたか?」と聞くと「はい!なんでわかるんですか?」といわれます。動物性食品を食べるということは、脾臓にとても負担を強いるばかりでなく、私たちが、これからどこへ行くのか、指し示す羅針盤をも失ってしまうことになるのです。ママキッチン

☆ Body knows the future ☆

からだの声に耳をすませばいいの?声って何?この「瞬間」からだのそこかしこが、どんな風につながって、そしてすべての組織や育みを、足は大地に伝えているんだろう。手には何を携えているんだろう。網膜に映る現実を、心にどう伝えているんだろう。内なる「目」で、どこに心地よさがあるんだろうって感じて。ほらほら!「生きる」こと、楽しみに待っている「細胞たち」がある。そうなんだね。からだは未来を知っている。