敏感症だったカラダが、新しい美容の世界を築くために日夜私にメッセージを送っていたんだね。
自然界にもっと近づきたい。
私の仕事は、長年、ケミカル(化学物質)を、
髪や肌に対して使うことでした。
ケミカル、化学が、悪者扱いされるのも忍びないけれども、
だから、美容師になることを拒んでいたのではなく、
理由は別にあることに気づいたのです。
とっても敏感症だった赤ん坊(私)は、
そういった環境の中で育つことが、
もっともストレスだったという「記憶」をインプットしていました。
生まれたての私が育った場所は、鶴見の美容室。
そこで使われたパーマ液は、
父が処方を作り、その兄が材料を調達して作ったものでした。
すやすや寝ている赤ん坊の傍らで、
叔父は調合をしていたらしく、
母は、私を守るために、戦っていたそうです。
家族を守るため、長年無我夢中で働き、
父と母は、そこから独立し、ついには、自分の城を築きました。
母は、強し。
そんな歴史は、だいぶ経ってから聞くわけだけれども、
なぜ私が、パーマの匂いが大嫌いだったか、
美容師としての仕事に抵抗を覚えたのかは、
さらに後になってわかるのでした。
皮膚の炎症が悪化して、
寝たきり、3ヶ月を経験してから、
やっと自分のことを知ることになるのです。
それまで、長い、長い年月がかかりました。
ここ、20年、人生の中で、大きな変換が起き続けています。
その変換のきっかけは、出会い。
もう、両手の指ではきかないほど、
素晴らしいスペシャリストに出会ってきました。
今は、サロンの仕事がもっとも好き。
と言えるようになるまでになって、
なんという違いでしょうか。
こんな自分になるなんて、想像もしていませんでした。
もっとも大切なことは、
品質のもっとも良いもので技術を提供すること。
これが一番であることには変わりがありませんが、
さらにもっと大切な何か。
それをずっと探し続けてきました。
私の病気は、
それが何であったか教えてくれていたのです。
それは、古い「角質」が、肌から自然に剥がれ落ちるように、
私たちが抱えてきた「大切だと思ったもの」も手放す、「許し」や「受け入れ」
さらに、「希望の火」を消さないこと。でした。
サロンは、「希望が丘」で開かれて、50数年となります。
なるほど。
希望が丘という地名にも意味があったんだね。
私たちの皮膚や髪は、
人生の生き方まで教えてくれていたんだね。
今年は、さらに、
アロマの精たちとの、
さらなる研究は進みます。
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